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生きる活力はアイドルです

広島に原爆を落とす日

答えのあることを、考えろ言われることが大嫌いだ。

答えのあることなら、最初から答えを教えて欲しい。考えさせた上で、それは違うというのは、卑怯以外の何者でもない。だから、昔から、道徳の授業が大嫌いだった。何を言えばいいのかはわかっていて、でも、人間が考えることは一つには収束しないから、嘘をついて、自分の考えだと称して、正解を書く。それが大嫌いだった。

昔通っていた中学と高校が、左そのもののような学校だった。道徳という授業の代わりに平和教育をしていた。平和教育なんて、答えは一つしかない。戦争はしてはいけないし、他人を傷つけてはいけない。わたしたちは手をつないで仲良く生きていける。それが答え。たかが、クラスの中ですらみんなで仲良くできなくて、ターゲットを変えてはいじめをしていたくせに。私たちは仲良く生きていけないなんて、幼稚園児でもわかることだ。仲良くしましょうという標語は何の意味も持たない。仲良くしたいなら、仲良くするための制度を作らなきゃいけない。時には、一歩下がってお互いに踏み込まないようにすることも必要だ。世の中にはどうしても仲良くできない人もいるけど、そういうときにどうしたらいいのか考えなきゃいけない。なのに、平和とか、反戦とかいう言葉の前ではみんな考えることをやめて、たった一つの答えだけが認められる。受け入れられる。それ以外のことを言う人は、頭のおかしい人で、危ない人で、非国民だ。

別に、戦争がしたいわけじゃない。わたしは他人のせいで死にたくない。死ぬときは自分の都合で死にたい。だけど、平和を声高に叫ぶ奴は大嫌いだ。自分が絶対正しいと思ってやまない奴は大嫌いだ。そうやって叫んでる奴の前で、何の疑いもなくそうだね、それが正しいねといってるバカはもっと大嫌いだ。そうやって、者を考えないで、だまされて、気づいたときには取り返しのつかないことになっていてしまえばいいのに。勉強をしろ。色んな意見を聞け。誰かが話していることが如何に主観的で危ういものであるかを知れ。

 

そんな調子なのに、わざわざ、明らかに戦争物の舞台を見に行ってしまった。そして、ぐったりして帰って来た。戸塚祥太が美しかった。ずるいと思った。美しいということは、全てを覆してしまうんだと思った。

一つだけ、私の感情をこんなにも揺さぶっているのは、ただ一つ、ディープ山崎が、棒で、部下をバシバシ叩いているときに言っていた台詞である。正確な台詞はわからないけど、京都帝國大学にいた私がなぜこんな土人と豚しかいない島で二年も過ごさなければならないのか、とか、そんなことを言っていたくだり。学歴のない者のことをバカにしていた、見下していた。深いことはわからないけど、表面的には、それはプライドの裏返しなんだと思った。自分は、すごいから、すごいのに、どうして認められないのかと、そして、誰かに認めてもらえない自分を、自分で認めるための方法が、誰かのことを見下すことなんだ。今気づいたけど、これってすごく古典的なことだね。そんな、古典的なことこそ、今自分がとらわれていて抜け出したくて仕方がないことそのものだったんだ。だから、そんなことを言って、冷たい視線を送られているディープ山崎をみるのがすごく辛かったんだ。

 

それから、ディープ山崎が、誰よりも日本を愛しているのに、周りから、混血として、異物としてみられていたことをみて、頭の中をよぎっていたことがある。わたしは、日本人で、おそらく500年さかのぼっても、確実に日本人である。ただ、北海道に生まれた。雪が降っても槍が降っても、そのせいで人が死んでも、全国ニュースでそのことが取り上げられることはなかった。それをみて、母は、ここは日本じゃないから仕方ないんだよ、と私に教えた。だけど、私は自分の生まれた国が大好きで、この国のために働きたいと本気で思った。それから、大学にいって、はじめて北海道という島から出て、本州でできた友達に、アイヌと言われてバカにされたことがあった。(ちなみにわたしの家には、アイヌの血は一滴も流れていない。)もし就職して札幌に飛ばされたら、仕事辞めると言われたこともある。きっと彼らの心の中に、差別なんて気持ちはほんの少しもなかったんだろう。でも、ただ単純に彼らの思い描く日本地図の中に、北海道は含まれていなかった。それだけだったんだと思う。でも、きっとそれって、混血なる人たちに対しても同じことなんでしょう。彼らの思い描く、自分たちの仲間の中に、血が混ざった人たちは入っていないと言うだけの話で。

 

だけど、こんなことを言うけれど、私はプライドが高いから、色んな者を見下して差別しているんだ。こんだけ理解できないと、いやだと思ってきたのに、結局、そのプライドの高さを上手く扱えなかったが故に、誰かのことを見下して、自分の平静を保っているんだよ。なんて最低なんだ。だから、ディープ山崎が、部下を棒で叩きながら、自らの境遇に憤っているシーンが耐えられなかったんだ。自分の弱さそのものだったんだから。

 

残りのことはよくわからない。何なら、舞台全体として一体何が起こっているのかよくわからなかった。ただ、照明がまぶしかった。大きな音がして、色んな人が長い台詞を話していた。昭和とか、天皇とか、そういうワードチョイスの一つ一つに少しひっかかっていたけど、最後までみて何となくそれは納得した。戸塚祥太の顔がきれいだった。こんなにきれいな顔をしているのに、自分を卑下しているようにも見える戸塚祥太のことがやっぱりむかつくと思った。戸塚祥太は確実にそこにいたけれど、もしかしたらそこにいないのではないかと思うぐらい、白くて発光しているように見えた。とにかくきれいだな以外に特に感想が出てこないくらい、きれいだった。民主主義は、誰かが幸せになれば誰かが不幸せになる制度だなんて諦める奴は嫌いだ。そうやって諦めたら誰も救われない。みんなだまされて上手いように利用されて終わりなってしまう。誰もが、幸せになれるような制度を作ろうと、制度を作り替え続けることが民主主義なんだ。だから、

 

 

公演が終わって、学生と思われる女の子二人組が、ねぇこれって実話なの?原爆落としたのって本当にディープ山崎って人なの?と話をしていた。それを聞いて、あぁこれだから学のない人はだまされるんだと、あざ笑いながら、初めてのサンシャイン劇場を後にした。