日誌

生きる活力はアイドルです

正義感と思い出

 今日の朝、というか、4時ぐらいに、色々考え事をしていて、実家のすぐ近くに児童養護施設があったことを思い出した。その施設の目の前には大きな公園があって、私もよく遊びに入っていたし、施設の子達とも一緒に遊んだことも何度もある。施設の体育館で遊んだこともあるし、小学校には、そこの施設から通っている子が何人かいた。今ここでは、施設の子と表現しているけど、当時の私に、自分と、施設の子と、他の子たちに、大きな区別はなかった。みんな等しく同級生。

 わたしの将来のやりたいことの分野の一つが、児童福祉である。これを考えるようになったのは、中学生の時であった。それなりの正義感から出てきた希望だし、今日の今日まで、純粋に、そういう子どもたちに対してできることがあるならやりたい!と無邪気に考えていた。

 ただ、ふと思い出してしまった。思い出してしまった途端に、自分の無邪気な希望は邪悪なモノにしか見えなくなった。邪悪、自分は恵まれているという、選民意識というか、他人を思いっきり見下しているような、そういうところから、出てきた希望。上でも言ったけど、そこの施設の子達のことをかわいそうだって思ったことは一度もなかったはずだった。たまに、施設の前に車が止まっていて、本当の親が年に何回か会いにきてるねんで、と母が教えてくれたけど、色々複雑なんだなーと思ったきりで、彼女たちのことをかわいそうだとおもったことはなかった。でも、中学生になって、私は私立の中学に進んだから、彼女たちとの交流がなくなって、気づいたら、児童福祉に興味があるとか言い出していた。そのときに言った、児童福祉という言葉の向こう側にいる客体は、自分の実体験とはかけ離れた、自分の脳内で作り上げた、かわいそうな子だったんだと思う。そして、今日の今日までその、脳内が作り上げたかわいそうな子が実在するのだと信じて、その子の手助けをしたいとかいう身勝手な正義感にあふれて、わたしは、今まで、何を考えていたんだろう。何が見えていたんだろう。昔のことをおもいだして、急に怖くなった。自分の、無意識の差別意識みたいなものが、怖くて仕方なくなった。

 もちろん、誰かの介入を必要としている人は、世の中に本当にいるし、自分が接していた、いわゆる施設の子達も、小学生の自分には何にも見えていなかっただけで、困っていることとか、色々あったんだと思う。そこは、否定できない。ただ、自分の思い描いている、理想の仕事は、あまりにも現実とかけ離れたところで、他人をバカにしていただけだったんだ。

 これ以外にもたくさんあると思う。正義感の押しつけ。かわいそうな人を勝手に作り上げて、それを救う自分という妄想。現実をよく知って、偏見をもたないで、フラットに、そうじゃないと、自分が気持ちよくなるために、気づかないところでたくさんの人を傷つけることになる。

 そんなことに、気づいて、自分の正義感が、恐ろしくなった。